それは突然のことだった。義母が急逝した。元気にしていたのに、どこかへ出かけるように「じゃあね」という感じで逝ってしまった。

義父が亡くなったのが6年前。脳梗塞で倒れて5年ほど患い、最期は病院で苦しい思いをするのを見てきただけに、「私は絶対病院で死にたくない」と。そして常々「人に迷惑をかけたくない」と言っていたが、本当に患うこともまったくなく、夕食後の湯船の中で心臓発作で亡くなった。

実の娘のように私に接してくれて、どんな時でも私を応援し励ましてくれた。義父が亡くなった時にも紹介したが、夫婦で新聞販売店を数店舗経営して、「読売 のお母ちゃん」として新聞奨学生を百人以上育ててきた。当時は20人分ほどの食事を毎朝晩作っていて、お米は4升、コロッケなら百個など、それを一人でこなしてきた。阪神淡路大震災の時は、義父と共に率先して炊き出しに奔走、私が遷都祭などのイベントで炊き出しを頼むと夫婦で喜んで手伝いにきてくれた。

コロナ禍であると共に義母の生前からの遺言で、葬儀は近親者のみで行った。家族同様である、奨学生OBの会「奈良北はばたき会」の皆は多数駆けつけてくれた。皆と話をしていると、義母がそれぞれの奨学生一人ひとりにどれだけ愛情を注いできたかよくわかった。 「夜遊びに行くと叱られて、遊びに行ったことではなくて夕ご飯を食べずに残していったことを叱られた」など、とにかく皆の体を気遣っていた。各々が愛情あふれる思い出をしっかり持っていて、いつまでも実の母のように慕ってくれている。

亡くなった後、デイサービスで作っていた川柳ノートが出てきた。それを見ると、義父のことばかりだ。義父の猛烈なアタックで結婚した二人だったが、その後義父は放蕩の限りを尽くし、それでも義母は耐えて店を切り盛りし子どもたちを育てた。その苦労を聞いた時は唖然としたが、義母が大病を患ってからは義父は人が変わったように義母を大事にし本当に仲が良かった。

義父が亡くなった後は心配だったが、妹や孫たちと暮らすようになり、元気で頑張ると努力していた。でも本当は寂しくて義父に早く逢いたかったのかもしれない。誰よりも心の強い女性であり、誰にも気配りを欠かさない、まさに太陽のような人だった。お母さん、四十九日が終わったらお父さんに逢えるね。また二人で以前のようにフルムーン旅行楽しんでね。