【葛城市】北花内大塚古墳(飯豊天皇陵)

●きたはなうちおおつかこふん(いいとよてんのうりょう)

どんな古墳?

古墳時代後期の築造と考えられる全長90mの前方後円墳。実際の被葬者は明らかではありませんが、飯豊青皇女の「埴口丘陵」に治定されています。延宝8年(1680)には新庄藩主・桑山一尹が桑山氏の産土神である諸鍬神社を弁之庄村から墳丘上に遷し祭殿化しました。幕末の元治元年(1864)の修陵と共に神社は旧社地に戻りましたが、社殿や参道の跡が現在も残ります。

地名に影響を与えた古墳

古墳の周辺には「花内(ハナウチ)」「三才(サンサイ)」といった地名がありますが、これは御陵に由来するもの。「花内」は御陵名の「埴口(ハニクチ)」が転訛したものだと言われ、かつて御陵一帯には花内村という村がありました。現在は御陵付近を境界に「北花内」と「南花内」に分かれています。また「三才」は御陵を意味する「陵(ミササギ)」「ミサンザイ」「サンザイ」と転じて「三才」となったと言われています。

幻の女帝・飯豊青皇女とは

飯豊青皇女は5世紀末の皇族。第17代履中天皇の王女、あるいは市辺押磐王子(履中の子)の王女と伝わり、葛城氏の血を引いています。「飯豊」には「フクロウ」の意味があります。

皇女は第22代清寧天皇の崩御後、第23代顕宗天皇が即位までの間、政治を執ったとされていて『扶桑略記※』には「飯豊天皇」とも書かれています。しかし、臨時の執政だったと認識され現在では不即位天皇の扱いとなっています。もし即位が認められれば推古天皇よりも約100年も前に誕生した日本最初の女帝となることから「幻の女帝」と呼ばれています。

※平安末期、天台僧・皇円が神武天皇~堀河天皇までの事柄を編年体で記した歴史書。全30巻と伝わり、うち16巻と抄本が現存している。