文禄4年(1595)に大和大納言家は断絶すると、五奉行の一人・増田長盛が22万3000石の領主として入城します。長盛は約50町にも及ぶ堀と土塁で城下町を囲む惣構えを構築しました。現在でも土塁(御土居)の一部を各所で見ることができます。
しかし慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れると長盛は高野山に追放、城の建築物は徳川家により接収されました。城地にははじめ奈良奉行所の大久保長安が在番し、のちに筒井定慶・順斎兄弟が入城しました。接収された建築物のうち、天守は二条城(京都市中京区)へ移され、その後、淀城(京都市伏見区)の天守に利用されたことが分かっています。
そして元和元年(1615)、大坂夏の陣直前、大坂方の援軍要請を断ったことを理由に大野治房率いる2000の軍勢が郡山城に迫りました。兵力を3万と見誤った筒井定慶は戦わずして福住中定城へ逃亡。城に残った30人の兵が討ち取られ、城下町の各方面に火が放たれることとなりました。定慶は城を捨てたことを後悔し、大坂城落城後に自害したとされています。