【大和郡山市】史跡 郡山城跡

●こおりやまじょうせき

天守台展望施設

国衆の居館型城郭

平安時代に郡山衆によって築かれた「雁陣之城」が郡山城の原形とされます。当初は環濠集落のようなもので、郡山衆が城主を務めていました。

最初の攻城戦は永正3年(1506)に室町幕府管領・細川政元の家臣であった赤沢朝経による大和侵攻とされています。この戦いでは、郡山衆ほか付近の国衆らが籠城しましたが、数千の赤沢軍によって壊滅し、『多聞院日記』には「郡山城没落」と記載されています。

郡山辰巳から筒井へ

戦国時代は小田切春次・春政父子(郡山辰巳)が城主を務め、筒井氏や越智氏に属していましたが、永禄2年(1559)に松永久秀が大和国に侵入すると、筒井から離反し、松永軍に属します。

郡山城は永禄11年(1568)の筒井城の戦いで松永軍に筒井城を追われた筒井順慶が入城し、以後福住中定城と共に筒井軍の拠点となりました。

天正5年(1577)に松永久秀が敗れ、天正8年(1580)に筒井順慶が大和守護になると、前城主・小田切父子は順慶によって殺害されます。

大和一国を支配する近世城郭へ

筒井順慶は天正7年(1579)に破却となった多聞城から大石を運び筒井城を拡張していましたが、地形の不利から丘陵地の南端に位置する郡山城を本拠にしました。

天正9年(1581)からは明智光秀が普請目付となり、奈良の大工衆を集め大規模な改修を行いました。そして天正11年(1583)に天守が完成したと『多聞院日記』は伝えています。

しかし翌年に筒井順慶が死去すると、養子の定次が城主となりますが羽柴秀吉の命により伊賀上野城へ転封となりました。

三国太守100万石の居城

筒井氏に代わって城主となったのが秀吉の弟・羽柴秀長。天正13年(1585)に大和・和泉・紀伊三国100万石の太守として入城すると、その居城にふさわしいものとするために拡大工事が行われました。本丸や多数の曲輪が普請され、天守台には5層の天守が建っていたと伝えられています。

普請は急ピッチで進められたため、根来寺(和歌山県岩出市)の大門を移築したり、石垣には寺院の礎石や墓石、石仏までもが用いられました。中には平城京羅城門の礎石頭塔(奈良市高畑町)の石仏なども見つかっています。

天守の礎石
転用石(逆さ地蔵)

城郭都市の形成、そして落城

文禄4年(1595)に大和大納言家は断絶すると、五奉行の一人・増田長盛が22万3000石の領主として入城します。長盛は約50町にも及ぶ堀と土塁で城下町を囲む惣構えを構築しました。現在でも土塁(御土居)の一部を各所で見ることができます。

しかし慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れると長盛は高野山に追放、城の建築物は徳川家により接収されました。城地にははじめ奈良奉行所の大久保長安が在番し、のちに筒井定慶・順斎兄弟が入城しました。接収された建築物のうち、天守は二条城(京都市中京区)へ移され、その後、淀城(京都市伏見区)の天守に利用されたことが分かっています。

そして元和元年(1615)、大坂夏の陣直前、大坂方の援軍要請を断ったことを理由に大野治房率いる2000の軍勢が郡山城に迫りました。兵力を3万と見誤った筒井定慶は戦わずして福住中定城へ逃亡。城に残った30人の兵が討ち取られ、城下町の各方面に火が放たれることとなりました。定慶は城を捨てたことを後悔し、大坂城落城後に自害したとされています。

線路両脇の竹藪が土塁
正願寺上池(手前)は外堀を活用した貯水池

復興と廃城

郡山城の戦い後、水野勝成が三河国刈谷から6万石で移封し、郡山城の修復を開始しました。修復は公儀普請(幕府主導の修復)とされ、勝成は本丸、二の丸、三の丸の一部と家中屋敷の修復を行いました。続いて入城した松平忠明の時代(1619~39)には、二の丸屋形(現・奈良県立郡山高校冠山学舎)の造営をはじめ、伏見城から鉄門や一庵丸門(追手門)などが移築されました。そして忠明と入れ替わりで入部した初代藩主・本多政勝の時代(1639~71)に城郭の主要部分が完成し、郡山城下もこの頃に最盛期を迎えました。

その後、本多家→松平家→本多家と藩主が替わり、享保9年(1724)に甲斐・甲府藩から柳澤吉里が15万石で移封されました。以降安定した治世を迎えましたが、安政5年(1858)に大火に見舞われ住居関係の建物群が焼失。文久元年(1861)から再建に着手しましたが明治維新を迎え、明治6年(1873)の廃城令で破却されました。櫓や門などは入札によって売却され、永慶寺には城門が山門として移築されています。

永慶寺山門/旧・南御門

市民が憩う公園

明治維新によって荒廃した郡山城ですが、昭和36年(1961)に本丸や一部曲輪が県指定文化財となったことをきっかけに復元整備事業が行われるようになりました。昭和58年(1983)の追手門(梅林門)以降、追手東隅櫓多聞櫓追手向櫓が復元されました。平成29年(2017)には天守台展望施設がオープンし、令和3年(2021)には本丸と毘沙門郭に架かっていた極楽橋も再建されました。今後は麒麟郭跡(旧・郡山高校城内学舎)を広場として整備される予定です。

また「さくら名所100選」に選定される桜の名所でも知られ、城内には堀を囲むようにソメイヨシノなど約800本が植えられており、「大和郡山お城まつり」が開かれる頃には城跡全体がピンク色に染まります。

追手門
極楽橋
基本情報 Basic Information
郡山城跡/こおりやまじょうせき
  • 住所: 大和郡山市城内町
  • 営業時間: 天守台展望施設/4~9月:7:00~19:00、10~3月:7:00~17:00
  • TEL: 0743-52-2010(大和郡山市観光協会)

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