若いお坊さんへのリレーインタビュー
「Boze数珠つなぎ」
#268
Profile
浄土真宗本願寺派
華咲山 教恩寺 住職
華咲山 教恩寺 住職
やなせ なな 師
1975年高取町生まれ。51歳
四天王寺高校、龍谷大学を卒業後、教恩寺で勤めながら、28歳でCDデビュー
得度は23歳。高取町初代観光大使
四天王寺高校、龍谷大学を卒業後、教恩寺で勤めながら、28歳でCDデビュー
得度は23歳。高取町初代観光大使
苦しみを歌に変えてきた僧侶シンガー
シンガーソングライターであり僧侶のやなせななです。シンガーとしては一昨年20周年を迎えました。
生まれ育ちはこの教恩寺です。太平洋戦争で亡くなった祖父の代わりに、お寺のことは祖母が仕切ってきました。両親は共に医師で、多忙ゆえ父は僧侶になりませんでした。兄も姉も医者の道へ進みました。私だけ小さい時から勉強嫌いでした。「勉強しないなら代わりに努力するものを持ちなさい」と厳しくしつけられ、能楽を続けてきました。そしてお寺を継ぐのも悪くないぐらいの思いで、龍谷大学に入りました。
そこで出会ったのが軽音楽です。サークルに入り、能楽とは違う楽しさに目覚め、能楽で鍛えた声量で歌を歌ってきました。卒業する頃、真剣に歌の道に進もうと、自作のデモテープを音楽事務所に送りまくりました。すると声をかけていただいたところがあり、なんと28歳で遅咲きのデビューをしたのです。
ところがまったく売れません。途方に暮れていたら、急に体調不良になり、病院に行くと子宮体ガンでした。人生が終わったような気がしましたが、幸いにもステージ1であり、両親や周りの友人らに励まされ、立ち直りかけた頃、今度は音楽事務所が倒産しました。
自暴自棄の気持ちで毎日を送っていると、大学時代の友人が、お寺に若い人を呼びたいから、お寺でコンサートをしてくれないかと声をかけてくれました。やってみると、観客の中には同じ病気を克服した人もいて、つらさを乗り越えて頑張っておられる姿に私自身が励まされることになりました。
仏様にお願いしないのかと思われるかもしれません。ですが浄土真宗の教えは、現世利益をお願いはしません。どんな人生であっても阿弥陀様に抱かれて生きるという教えなのです。
私がこの境遇を誰かのせいにしたり、果ては神様や仏様に愚痴を言ったりしなかったのは、お寺で育って小さい頃から祖母にその教えを聞かされてきたから、この不遇な状況も縁なのだと思えたのです。ある意味とても厳しい教えではあるけれども、すがすがしい教えでもあると思います。
それを機に私は宗派に関係なくいろんなお寺からコンサートにお招きいただくようになりました。宗派を超えて多くのお寺で歌ううちに、さまざまな教えに触れました。そのことで、逆に浄土真宗についても深く理解できるようになりました。
順風満帆で進んできたところ、最も大きな試練がまいりました。大好きな母がレビー小体型認知症になってしまったのです。西大寺で開業していた皮膚科を閉じて、これからゆっくりできるという時でした。この病気は薬が効かず進行が速いことが特徴です。またパーキンソン症状が出て体が思うように動かせなくなりました。整形外科の勤務医を続けながらの父と私で4年間自宅で介護をしました。認知症状は進みましたが、父と私のことだけはほぼ忘れずにいてくれました。
一昨年、母がとうとう亡くなりました。悲しくていまだに立ち直れてはいません。その悲しみの中、家のことは何もしない父と毎日のように喧嘩をしていました。ところが先日、遺品の中から、父が母に宛てた手紙を見つけたのです。百通ぐらいありましたが、一通だけ読んでみました。二人は医学生時代の同級生だったので、その頃の話でした。ところが手紙の日付が後々生まれくる私の誕生日と同じ日でした。
「あーこれはきっと母が『私の好きな人をそんなに怒らないで』と言っているのかな」と思って少し反省しました。父は母のことが好きで仕方なかったので、私以上に母の死を受け入れられていないのだと思います。
「あーこれはきっと母が『私の好きな人をそんなに怒らないで』と言っているのかな」と思って少し反省しました。父は母のことが好きで仕方なかったので、私以上に母の死を受け入れられていないのだと思います。
母は太陽のように誰にも明るく、誰からも愛される人でした。母が与えてくれたぬくもりを生涯忘れることはありません。
私の歌は、意識しているわけではありませんが、浄土真宗の教えが自然と流れているようで、人の生と死をテーマにしたものが多くあります。でも、母を亡くして初めて、大切な人を失う悲しみを本当の意味で知りました。その悲しみを知った今だからこそ、人のつらさや悲しみに寄り添える歌を歌いながら、母が残してくれたぬくもりを胸に生きていきたいと思っています。
やなせななさんの今後のスケジュール等は公式HPで
聞き手:朝廣佳子

