通勤通学で見かけるあの人 行基(668〜749)

静寂がただよう国の史跡「行基墓」

《連載》
新日本妖怪紀行|第24回

通勤通学で見かけるあの人
行基(668〜749)

読者の方で、近鉄「奈良」駅を利用される方は多いことでしょう。毎朝、噴水の上にたたずむ僧侶の姿を横目で見ながら階段を上り下りされているのではないでしょうか。この像は、みなさんよくご存じの東大寺の大仏建立をはじめ、全国に多くの寺院や道場をつくり、ため池、堀、橋の工事など、社会事業も多く行った行基ぎょうきの像です。今回は、その行基にまつわる伝説をお届けします。

奈良時代の型破りの僧

行基と言えば東大寺の大仏建立の実質的な責任者です。しかし当時、僧侶は民衆へ直接布教を行うことを禁じられていました。ですから寺の外で説法や社会事業を行う行基は異端視され、朝廷から度々弾圧されましたが「行基集団」と言われるほど協力する人が多く、工事における技術力の高さから朝廷は弾圧するのをやめて、大仏造営の任に当たらせたのです。しかもすぐに「大僧正」という最高位を与えるのですから、いかに行基の存在が大きかったかわかりますね。近鉄「奈良」駅の行基像(ブロンズ製)をはじめ私の知る限り、奈良市中町の霊山寺りょうせんじ、御所市の九品寺くほんじにも同様の行基像(2体は赤膚焼)があり、すべて東大寺の方向を向いています。
近鉄「奈良」駅の広場(東向中町)にある行基像

血肉をぬった女と、親を責めさいなむ子

行基には、ふたつの奇怪な伝説があります。ひとつは元興寺がんごうじで行基が7日間、仏法を説いていたときのこと。急に「くさい! 頭に血肉をぬった女がいる。追い出せ」と、行基が言い出しました。女は実際に猪の血をぬっていたのですが、他の人には油をぬっているほどにしか見えなかったのです。行基は文殊菩薩の化身と信じられ、すでに人間の域を超えていて、人が霊的に気づかないことがわかるのです。

もうひとつは、行基が難波なにわ(現在の大阪市)で説法していたときのこと。その中に子どもを抱いた川俣の郷(現在の東大阪市川俣本町)から来た女がいて、その子どもというのが10歳を過ぎても歩けず、いまだに母親の乳を飲み、たえまなく何か食べているという評判の悪い子でした。母親はそのせいでやせ細り、その日も子どもはギャーギャーと、行基の説法を聞かせないような激しい泣き方をしていました。行基は女に「その子を川に捨ててこい」と言います。慈悲深い行基がそんなことを言うとは、と一同驚きましたが、次の日も女に「その子を川に捨ててこい」と言います。
それほどまでに高僧が言うので、川のふちに女はその子を投げ捨てました。すると歩けなかった子どもが水の上にすっくと立ち、足をふんぞり、手をもみ、鬼のように目をむいて「無念。あと3年は責めさいなんでやったものを」と言いながら川の中に沈んでいったのです。
実は女は前世で、その者から借りたものを返さなかったから、今生こんじょうで貸し主が子どもとして生まれ、食べ物をむさぼり食うという取り立てにあっていたのです。
東大阪市川俣本町の川俣神社付近に、この伝説は伝わっています。因果応報の恐ろしさを語る逸話ですね。このふたつは『日本霊異記にほんりょういき』と『今昔物語』に収録されています。
行基の伝説が伝わる当時の川俣郷にある「川俣神社」

行基が眠る墓

行基は実際には大仏の完成を見ることなく82歳で亡くなり、生駒市有里町にある竹林寺に葬られました。行基の墓はこんもりと土が盛られており、あたりはシンとして神妙な気持ちになります。この行基の墓は、大正10年3月に内務大臣から史跡天然記念物保存法(後の文化財保護法)により、国の史跡とされました。彼の働きがなければ、奈良の大仏も奈良の景観も大きく変わっていたことでしょう。いや、国の歴史も変わっていたかもしれません。お墓が国の文化財になるのは当然と言えるでしょう。

通勤通学で通る駅前にたたずむ行基像を、たまには立ち止まって見上げてくださいね。
「行基墓」がある竹林寺の本堂
文・写真提供

竹林 賢三

TAKEBAYASHI KENZO

*掲載内容は2017年7月に取材したものです
戻る